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まず日本でプロに大倉氏が初めてパイロットを志した当時、日本のエアラインへの道と言えば、国立の航空大学校を卒業するか、4年制大学新卒者のみを対象とした自社養成制度に合格するか、二通りあるとは言えどちらも非常に狭き門だった。しかし、何もエアラインだけがパイロットの職場ではない。使用事業を始め、パイロットがプロとして日本国内で活躍する場は他にもあった。エアラインにこだわらなければ、自力で事業用の免許を取得して、就職することだって可能である。「海外訓練という選択肢もあったが、日本の専門学校だけでも取れるのだと知り、とりあえず親を説得した。アメリカで取ることは特に考えなかった。」と彼は振り返る。 日本の空で飛行機を飛ばすことを仕事にすると決意した大倉氏は、高校卒業後、国内の航空専門学校に入学。当時18才。訓練と勉強に打ち込み、3年2ヶ月後、無事事業用免許まで獲得することができた。指導してくれた教官陣や周囲の人々の応援もあって、運良く東北の使用事業会社への入社が決まり、23才にして晴れてプロのパイロットとなった。 「仙台でのフライトは、フォトミッションが最も多かったですね。次に、マイクミッション(拡声器での宣伝)。個人や企業の宣伝は条例で禁止されていても、選挙管理委員会や警察など公的な機関の告知活動は例外という場合が多いんです。800〜1,000フィートAGLまで降りてやりますから、下にいる人達にとっては迷惑だっかかも知れませんけど(笑)。」 変革の時代就職を果たした時点で、当初の目標はすでに達成してしまっていた。精力的にフライトをこなす日々。仕事には満足していた。やがて3年半の月日が流れ、総飛行時間も1,000時間に達しようとしていた頃、日本のエアライン業界が大きな変革の兆しを見せ始めた。JALエクスプレス(JEX)やフェアリンク(現IBEX)、スカイネットアジア航空などが誕生し、 心機一転、エアラインを目指すことを決意した大倉氏は、使用事業会社での仕事を続けながら、エアラインを目指した計画を始める。 操縦士免許保持者としてエアラインに応募するには、事業用に加え、計器飛行証明と多発限定も持っていることが、大抵の場合求められる。およそ1,000時間に及ぶ飛行経験を積んでいたが、計器飛行と多発はまだ持っていなかった。これを意外に思う人もいるかも知れないが、日本国内における使用事業フライトの多くはローカルフライトで、事業用免許さえあれば、計器飛行や多発まで無くても足りてしまうからである。単発のCessna 172でフォトミッションを飛ばすことが代表的な仕事なら、確かにそのとおりと言えばそのとおりだ。「飛行機自体も正規のIFR仕様ではなかったですから。」 さて、必要な追加資格をどこでどうやって取るか。これまですべての訓練を日本だけで積んで来た彼だか、さすがに計器も多発も日本だけでカバーするには、コスト的に無理がある。まずは、書類手続きだけで日本版に書き換えられる多発の資格を、費用もリーズナブルな海外で取得することを考えた。しかし一口に海外と言っても、アメリカはもちろんカナダやオーストラリアも含めて考えると、フライトスクールの数は途方も無い。 そんな中、彼にとってAir Accordは自然な選択肢の一つだった。互いに助け合って訓練を共にした専門学校の同志を含め、先輩・後輩の多くがAir Accordの卒業生でもあり、3人がすでにJALエクスプレスの副操縦士として活躍していて、使用事業会社の運航部長や海上保安庁のパイロットとして就職を果たしている者もいた。そんな彼等が、躊躇無くAir Accordを奨めてくれた。 当初、アメリカでは多発だけを取得するつもりでいたが、Air Accordでのキャリアカウンセリングの結果、FAAの計器飛行証明も併せて取得する計画に変更。海外の計器飛行証明は日本のそれに書き換えられないはずなのに、何故か。そこには深い理由があった。日本では、計器飛行の訓練は最初から多発機で行われることがほとんどだ。日本の計器飛行方式の実需と言えば、エアラインで多発機を飛ばすことがその大半を占めるからである。一方アメリカでは、「計器飛行の基礎」という考え方がある。自家用パイロットが、天候に阻まれることを嫌ったり操縦のレベルアップを目的として計器飛行証明を取得することは、珍しくない。彼らにしてみれば、ただでさえ難しい計器飛行を、最初から高コストでオペレーションも複雑な多発機で訓練する方が寧ろ不可解なくらいだ。 アメリカで多発だけを取って日本に帰ったとしよう。エアライン応募前の最終段階で、初めて計器飛行の世界に飛び込むことになる。それも多発機でだ。それに対し、FAA計器飛行証明を単発で取得し基礎を固め、双発に移行して計器方式の応用を積んだ上で日本の計器訓練に挑むのとでは、習得スピードや総合的な技量に違いが出るのは言うまでもない。それに、「書き換えを無試験ではできないという話であって、実技訓練と試験を伴った書き換えと捉える方が正確」と大倉氏は語る。「FAA計器証明の有無次第で、JCAB計器証明取得の時間も大きく違う。訓練飛行時間も10時間は短縮できたし、実技試験も4時間は短かった。」 回り道と言えば回り道だが、「とても有意義な回り道」を選ぶことにした。 Air AccordでFAAの事業用多発限定と計器飛行証明を取得することとなった大倉氏。彼のように使用事業で1,000時間も乗っている人から見た、Air Accordでの経験はどのように感じられたのだろうか。 「脇田校長に知識として教わったことが思いのほか多く、飛行機を飛ばすのがそれから楽に感じるようになった」と振り返る。「それまでは感覚と慣れで飛ばしていた印象が強かった。日本の仕事では、ミッションをこなすことに集中するあまり、忘れていた部分があったり、基本的なことが抜けがちだったと思う。」実に率直な大倉氏である。Air Accordでは、飛行機の動きの理論的因果関係など、 計器飛行訓練での一番の苦労を尋ねてみた。「VFRでは外を見て感覚だけで飛んでいたのが、IFRだと計器表示だけで外をイメージしてATCの指示に従って飛ぶので、そのギャップが辛かったですね。『IFRでは、パイロットは飛行機を操作するマシンになれ』と校長に言われました。なるほどと思いました。」当初は考えすらしていなかったアメリカでの計器訓練だったが、後々十分に功を奏した。「ホールディングなど、計器飛行特有の様々なプロシージャーをAir Accordできっちりやったお陰で、日本に戻ってからが楽でした。」 一方、多発で難しかった点はと聞くと、「航空工学。イメージがつかみにくく、飲み込むのに苦労しました。操縦では、やはりOne Engine Inoperativeになった時ですね。Vmcは味わい深いです。」と思い返していた。 「やはり日本と違って、アメリカではより自由に飛行機に乗れた気がします。日本だと免許を持っているだけではなかなか飛行機は借りられませんし、値段も値段ですから。」アメリカならではのレクリエーションフライトも満喫できたようだ。「有名なリノ空港のエアショーへは皆と訓練機を駆って3機編隊で行きましたし、美しい海岸線で知られる保養地モントレー、航空博物館のあるキャッスル空軍基地などへも遊びに行きました。もちろん全部飛行機で。」訓練が厳しい分、オフを充実させることも、集中力を維持する上で大切なことでる。「JALの自社養成拠点があるナパ空港へは、計器飛行証明が取れたのであえてIFRで行って、VORランウェイ6アプローチ、タワーの指示に従いサークル、ランウェイ18Rへ着陸。空港内にある有名なステーキハウスで、滑走路を眺めながらの食事は美味しく、お洒落でした。日本では諸手続きが大変で、まずできないことですね。」
しかし、Air Accordで過ごした日々の中で、大倉氏にとって最も印象深かったのは「アフターケアの良さでした。訓練以外のことでも親身になってくれましたし、 落ち込んでいる時でも何とかしてくれたんです。Air Accordでは、スタッフが本当に一丸になっていると感じました。結局それが一番大事なポイントではなかったかと。仲間の奨めどおりAir Accordにして良かったと思いましたね。」 大倉氏は、2003年一杯までに、Air AccordのFAA計器飛行証明コースと、FAA事業用多発(有視界飛行&計器飛行)コースを卒業した。 日本に戻ってからは、まず取ったばかりのFAA多発をJCAB多発に切り替える手続きを行った。これは書類だけによるものなので、難なく完了。次に、計器飛行証明の学科試験を受験することにした。意外に思われるかもしれないが、日本の計器の学科試験は、特に計器訓練や授業を受けていなくても、自家用か事業用免許さえ持っていれば誰でも受験できる。アメリカからの帰国が2003年末。同学科試験は、3月 ・8月 ・11月の年3回しかなかい(当時)。少し考えたが、8月までは待ちたくないので、最短の3月受験にチャレンジすることにした。 「時間が限られていたので、気合いを入れて勉強しましたよ」と、大倉氏。FAAの計器飛行と日本の計器飛行の学科の違いについて尋ねてみた。「一言でいうと、『日本らしい』と思いましたね。数字暗記が沢山あるところなどが、特に。」試験対策は、分からないところを知り合いの先輩に聞く程度で、ほぼ自分一人でやったという。やはり、FAAの計器飛行を所持しているだけのことはある。猛勉強を重ね、予定どおり3月に受験。結果は5月まで判らないので、その間、日本の計器飛行訓練を受けるフライトスクールを探すことにした。様々な要素を検討した結果、エアフライトジャパンに決定。 そして5月初頭、待ち兼ねた試験結果が届いた。見事な一発合格だった。 エアラインへの応募資格を満たすまで、残すところ日本の計器飛行証明取得のための飛行訓練と実技試験だけである。そのラストスパートに挑むべく、大倉氏はエアフライトジャパンのある長崎へと向かった。 アメリカでのそれに比べ、エアフライトでの計器飛行訓練はどのように感じたのだろう。「やはり少しギャップがありました。例えばチェックリストなどは、ただ沿うだけではなく、リストに載っていない『メモリーアイテム』なるものがあり、まずはそれを覚えなければなりませんでした。
それでも、FAAの計器飛行証明を持っているのといないのとでは、大きな差がある。「まず、外国の計器証明を持っていると、フードでのマニューバー訓練が免除され、その分実運航プロシージャーに時間が割けるんです。」当然、訓練期間と飛行時間にも、はっきりと差がつく。外国の計器証明がなければ、通常は期間にして5ヶ月、飛行時間にして55時間程度かかるところ、それぞれ4ヶ月と45時間程度で済む。あまり大きな違いではないように映るかもしれないが、日本で、しかも多発機で訓練を行う場合の単価を忘れてはいけない。エアフライトの場合(使用機材Beechcraft Baron・教習料・燃料込)で、なんと1時間当たり約12万円である。これは大差であると言えよう。「最後の実技試験も、外国の計器証明の有無によって、4時間は異なります。」 2004年9月中旬。大倉氏は、JCABの計器飛行証明(事業用多発)保持者となった。これでようやく、エアラインへの応募資格がすべて揃った。 「応募するエアラインは、特にJEXだけに絞っていた訳ではなく、募集があるところならどこでも前向きに応募するつもりでした。」しかし、ちょうど目前(2004年10月末)に、年に2回行われているJALエクスプレスの応募締切があり、タイミング良く最初の応募先となった。JALエクスプレスと言えば、免許既得者を対象にした採用制度のパイオニア的存在であり、志望中の志望である。多くの応募者が書類審査の段階で落とされると聞いていたが、大倉氏は、すんなりとパスしてしまった。やはり、これまでのプロとしての経験と、Air Accordやエアフライトでの訓練実績が認められたのであろうか。 書類審査を通った大倉氏を次に待ち構えていたのは、自社筆記試験と、一次面接。しかも同じ日にまとめて行われる。筆記試験は、SPIに似たものや図形をベースにしたもので(ちなみに、航空に特化した内容ではまったくない)、ある程度エアフライトで対策をしてもらっていた。 しかし、難関はまだまだ続く。次は実技審査だ。驚かされるのは、その内容。羽田空港のJAL関連施設内にある、MD-81のフルモーションフライトシミュレーターで行われるという。「『MD-81のシミュレーターでこんなことをします。速度は何ノットで...』といった紙が1枚、ポンと届きました。何とも言えない気分でしたね。」 審査当日。午前中に概略的な座学を受け、午後からいよいよシミュレーターに搭乗する。テレビや写真でしか見たことのない、何本も足の生えた大きな箱のような、複雑な動きをする、そう、アレである。「これまでの操縦感覚とは全然違いました。Cessna 152からいきなりPiper Senecaに乗るくらい、いや、それ以上だったかもしれません。」流石の大倉氏も、この時ばかりは少々舞い上がってしまったようだ。「直接操作するのは操縦桿、ラダーペダル、パワーの3つだけですけど、まずは慣れるために、離陸、上昇旋回、降下旋回を、最初から全部自分でさせられます。そこから今度はいきなりトラフィックパターンに戻され、タッチ&ゴーを3回するよう指示されます。『エッ!?いきなり!?』って感じですよ。」ジェットはもちろん、タービン機も未経験の大倉氏は(他の候補者の多くもそうであるが)、相当戸惑ったようだ。「やはり、慣性が大きかったですね。操縦桿をかなり入れてるのに、バンクがなかなか付いてこない。すぐにオーバーシュート、アンダーシュートしてしまいます。パワーの感覚も今までの比ではなく、1,500フィートでレベルオフするよう指示されていたはずが、気が付くと3,000フィートまで行ってたり。ちょっと焦りましたね。」自分がどのように評価されたのか想像もつかないまま、シミュレーター審査を後にした。 そして2004年もあと僅かという頃、一通の書類が届いた。身体検査の通知だった。それはつまり ・ ・ ・ シミュレーター審査の通過を意味していた(!)。この時点で、すでに候補者は10名に絞られていた。 残すは最後の関門、役員面接である。フォーマットは一次面接と同じで、相手は約7名。「緊張しまっくていました」と言う。それから待つこと僅か2〜3日。「電話で連絡があり、『役員面接はパスしたので、あとは身体検査の結果がOKなら内定です』とサラッと言われました。」普通ならここで大喜びしそうなものの、身体検査の項目が細かいことを知っていた大倉氏は、まだ手放しでは喜べなかった。指定の身体検査を受け、結果を待った。 ほどなくして、知らせが届いた。身体検査、パス! JALエクスプレスのパイロットしての内定が、事実上確定した瞬間である。19歳で自家用取得からちょうど10年、29歳での快挙である。 年が明け、2005年1月の下旬、大倉氏は大阪にいた。伊丹空港に隣接するJALエクスプレス本社で行われる、重要な儀式に出席するためだった。内定式である。 式は淡々と進められ、一人ずつ内定書が授与された後、今後の流れについて説明が行われた。現在、JEXのパイロットになると、
ところで、現在JEXでは年に2回、免許保持者の採用を定期的に行っているが、採用人数については特に枠は設けていない。優秀な応募者がいれば採る、という方針のようである。結局この期の採用では、10名が合格となった。合格者の経歴は様々で、自衛隊出身者や、航大卒の海上保安官、中には今回が2回目の応募で決まったという人もいた。大倉氏のような使用事業出身者はもう一人だけだった。ちなみに、年齢的には30歳前後が多かったそうだ。 さて、めでたく内定と相成った訳だが、実際にJALエクスプレスのパイロットとしてジェット旅客機に乗務できるまでの道程は、まだまだ残っている。 JEXでは、社内訓練の開始予定時期よりかなり前にパイロットの募集を行い、内定を出している。大倉氏の場合、2005年1月に内定を受けたが、訓練開始は2006年6月の予定。訓練施設のスケジュールなども考慮し、余裕を持って人材を確保しておきたいとの考えがあるのだろう。 それにしても、約1年半もの間待機することになる。しかし、そこには何とも嬉しいシステムが待っていた。驚くことに、社内訓練開始までの間、操縦に長いブランクが空かないよう、約2ヶ月に1回の割合で提携先のエアフライトジャパンに1泊2日の日程で派遣され、Baronで1.5時間程度のリフレッシュ訓練を受けるのだ。しかも、費用はすべてJEX持ちである!「『いってらっしゃい』と言わんばかりに、現地までの往復の航空券がポンと送られて来るんです。これは嬉しかったですね。」それはそうだろう。何しろ約10年に及ぶパイロット歴の中で、自ら出費することなく訓練が受けられるのは、これが初めてなのである。 社内訓練開始までは、リフレッシュ訓練以外、自由に過ごして良い。職のある人なら、当然そのまま続けて構わない。大倉氏の場合、Air Accord入学の時点ですでに使用事業会社は退職していたので、アルバイトに励むことにした。 さて、2006年6月の社内訓練開始を以て、身分はJALエクスプレスの契約社員となる。社内訓練の期間はおよそ13ヶ月間で、まず最初の1ヶ月は、研修として操縦には関係のない地上勤務を命ぜられる。エアラインの運航は、パイロットだけではなく様々な分野のプロフェッショルが力を合わせ、多数の機材・設備を使いこなし、そこに航空券を買ってくれるお客様がいて初めて成り立つのだということを、実体験を伴って自覚させるためだろう。 その後は運航乗務員としての本格的な訓練に入るが、操縦部分は主にフルモーションシミュレーターで行われる。採用時の実技審査に使われたものと同じだ。
6〜7ヶ月間に及ぶシミュレーター訓練を終えると、ある大イベントが待ち構えている。そう、生まれて初めてジェット旅客機、McDonnel Douglas MD-81の実機を自分で操縦するのである。場所は、大分空港にあるJALグループの訓練所(合併前は、旧日本エアシステムの訓練所)で行われる。機体は実運航で使われているものをダイヤから間引いて持って来る、本物中の本物。「今から楽しみですね。感覚的なインパクトが一番大きいのは、間違いなくこれでしょう。」(この実機訓練に伴いJEXが負担する経費は一体いかほどに上るのか、想像するだけでクラクラする!) 約1ヶ月の実機訓練を経た後、大阪本社へ移り、いよいよオブサーバーとしてお客様を乗せた実運航便のコックピットに入る。オブザーバーとは言っても、上空で席を替わり、離着陸以外のことを操縦席ですべて実際に経験させられる。その間、パイロットとして乗務に就かせて問題ないか、厳しいチェックが行われる。後半には離着陸もあるはずだという。 こうした多岐にわたる訓練と審査をすべて無事通過して、ようやくMD-81の機種限定(Type Rating)がJCABから付与され、初めてJALエクスプレスの正社員として迎えられる。正式に副操縦士となるのだ。 記念すべき初乗務は、それから間もなくやって来るはずである。この記事の作成時期からまだ2年も先の話ではあるが、本人はもちろんのこと、見守る我々も、その瞬間がとても待ち遠しい。 |
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